伊豆諸島の文化財調査

1957年07月

北伊豆諸島文化財総合調査団は前年度の御蔵、三宅両島調査に引続き、一三日から二九日まで利島、大島、新島、式根島、神津島の五島の文化財調査を行い、住居址の発掘、土器の発見のほか、一木造の平安時代仏像二五体を発見した。

ギメー博物館寄贈品展

1957年07月

日仏文化交流の一環としてさきにパリのギメー博物館から寄贈された美術品二二点が二日から一四日まで東京国立博物館で展示された。ハッダの仏頭など八点、トムシュクの泥造一〇点、クムトラの塑像一点、敦煌の麻布二菩薩像一点、、薄絹菩薩像二点で、いずれも四、五世紀から七、八世紀の学術的に非常に貴重な作品である。

衆議院文教委員会で美術行政を追求

1957年07月

九日行われた衆議院文教委員会で、社会党代議士高津正道委員は、政府の美術行政を追求した。芸術院の在り方、日展運営上の問題等が質問の中心であつたが、これに対し宇野文部省芸術課長が答弁にあたつた。なお同様質問がその後一〇、一二日の委員会でも引つづき続行され、一二日には高橋芸術院々長が出席して質疑応答が行われた。この事態は報道関係にも大きく扱われ、斯界にセンセーショナルな話題をなげ世間一般にも大いに注目をひくところとなつたが、その後日展改革問題は高津発言に端を発して種々対策が協議された。その結果、来年より日展、芸術院を分離し、また運営会の改善等が協議された。その結果、山崎覚太郎松田権六山鹿清華の三理事は事態の責任をとつて院長に辞表を提出したが、結局岩田藤七理事の辞任があつて三名の辞表は撤回されることになつた。なほ九月二八日の日展運営会臨時総会で、芸術院との分離は正式に決定された。

シエルデザイン賞設定

1957年07月

さきにシエル美術賞を設けたシエル石油会社では、今回デザイン賞を設定した。グラフィックデザインを公募して、授賞は一等一点一〇万円、二等一点五万円、三等四点各一万五〇〇〇円とし、九月授賞の発表が行われた。結果は次の通り、 一等-「働らく人」田保橋淳、準二等「石油」甲斐重夫、「海のファンタジー」伊坂芳太良、三等「石油」岩本朝彦、「石油」福田繁雄、「立体交差」高田宗治

東南アジア稲作民族文化総合調査団結成式

1957年07月

日本民族学協会主催、読売新聞社後援による東南アジア稲作民族文化総合調査は、九月一日からタイ、カンボジャを中心に開始されたが、その調査団結成式が六日東京会館で行われた。調査団は松本信広慶大教授を団長に、カンボジヤ班(班長松本団長兼務)とタイ班(班長阿部利夫東京外語大教授)の二手に分かれ調査がすすめられた。

谷中天王寺五重塔焼失

1957年07月

東京谷中の天王寺五重塔は六日未明放火により黒こげの骨組だけを残して全焼した。寛政三年(一七九一)の再建になり、総ケヤキの素木造で、幸田露伴の「五重塔」のモデルであつた。

デモクラート美術協会解消

1957年07月

デモクラート美術協会は、戦後の美術界で前衛的活動をつづけてきたが、このほど会員たちの申合せにより解散した。

東京都美術館の増改築

1957年06月

東京都美術館は建設以来三二年を経て居り、戦後美術団体の増加につれて、その利用者もふえ、このままでは要求に応じきれなくなつてきた。そのため都では予算二五〇〇〇万円を計上し、美術団体の寄附五〇〇〇万円と合せ、増改築工事をすることになつた。工事は一六日に着工し、来年三月一日までに完成する予定だが、はじめの計画では周囲の空地に新築するつもりのところ、都市公園法にふれるためやむなく現在の二階建を三階に直す。展示場は現在より一五〇〇坪ふやし、新しい設備として従来の自然光だけの採光をすべて人工光線に切りかえる。また運搬用エレベーターを設けるなど新趣向をこらす。

インカ遺跡の発掘を許可

1957年06月

ペルー政府は、同国を訪れた東京大学文化人類学教室泉靖一教授に対し、同国リマ州カンカイ谷の発掘研究を許可した。なおペルー政府は許可を与えるにあたり発掘研究の結果をペルー考古学部に報告するよう求めた。

名古屋城再建工事開始

1957年06月

名古屋城の復興再建工事は、一三日、戦災で焼失して以来一三年ぶりに着工された。三四年一〇月に完成の予定で、外観は殆ど昔の姿そのままとし、内部にはエレベーター、換気、照明、消化など最新式設備を施すという。

東京国際版画ビエンナーレ展開催及び受賞

1957年06月

国立近代美術館と読売新聞社の共同主催による第一回東京国際版画ビエンナーレ展は、外務省、文部省後援の下に、一五日から七月一四日まで有楽町読売会館並びに国立近代美術館で開催された。参加国海外二九カ国から五〇〇点、日本作家二〇〇点計七〇〇点が第一会場読売会館に、第二会場の近代美術館では歌麿、北斎の作品がそれぞれ陳列された。なお二九日読売ホールで授賞式が行われ、次の通りそれぞれ賞状及賞金が贈られた。 国際大賞(副賞三〇万円)ジョルジュ・アダム(フランス) 外務大臣賞 リコ・デペンヤーク(ユーゴスラビア) 文部大臣賞 もり・まなぶ(日本) 国立近代美術館賞(副賞三〇万円)浜口陽三(日本) ブリヂストン美術館賞(副賞一〇万円)アントニ・クラーヴェ(フランス) 神奈川県立近代美術館賞(副賞一〇万円)ジョニー・フリードレンダー(フランス) 大原美術館賞(副賞一〇万円)ヤコブ・ピンス(イスラエル)、レオナード・バスキン(アメリカ) 新人奨励賞(副賞総額二〇万円)ジェフリ・クラーク(イギリス)オットー・エグラウ(ドイツ)、泉茂(日本)、吉田政次(日本)

上野東京芸術大学々長渡欧

1957年05月

上野東京芸術大学々長は、六月九日から二六日までベルギーのブリユッセルで開かれる国際学士院連合第三一回総会に出席するほか、欧州各国の美術音楽教育の教育課程を視察するため三一日渡欧した。

桃山障壁画名作展

1957年05月

日本経済新聞社では二八日から六月九日まで、日本橋高島屋で、国宝永徳筆梅ニ小禽図(聚光院)、同等伯筆松ニ草花図(智積院)、同宗達筆風神雷神図(建仁寺)、御物友松筆浜松図、同永徳筆花鳥図その他の桃山障壁画の名作と、この時代の意匠をこらした工芸品を集めて展観した。

梅原竜三郎芸術院会員を辞任

1957年04月

洋画家梅原竜三郎は「自由な立場で自由な仕事をしたい」との理由で、高橋芸術院々長のもとに会員辞任を正式に申入れた。梅原は昭和二三年第四回日展が芸術院主催で開催が決定された際、「官展には反対なのに、その日展の審査を芸術院がやるのでは止めざるを得ない」と辞表を出して居り、このときは芸術院側の慰留で「審査に出ない」ことで会員として止まり現在に至つた。今回も芸術院への不満が取沙汰されたりして居り、芸術院側は極力その慰留に努めたが意をひるがえすことは出来ず、同月三〇日付で、辞任が発令された。

産経児童出版文化賞決る

1957年05月

こどもの日を記念して産経時事新聞社が制定した児童出版文化賞は、その第四回授賞が決定し五日発表された。美術関係では今泉篤男著「西洋の美術」がある。

近世初期風俗画展

1957年04月

東京国立博物館では二〇日から五月一九日まで近世初期から江戸中期にわたる風俗画の代表作七六点を集めて春の特別展を開催した。風俗画を通じて浮世絵版画や肉筆浮世絵の源流をさぐろうとしたものである。

柳里恭展

1957年04月

没後二〇〇年を記念して、奈良国立博物館では二〇日から五月二〇日まで柳里恭展を開催した。柳里恭を中心に、諸大家の代表作約八〇点を集めて初期南画の形成過程を示そうとする試みで、偽作、模作の多い柳里恭研究に一つの規準を示そうとしたものである。